LOGIN白川恋が目を覚ましたとき、外の世界は白一色に塗り潰されていた。
夜通し吹き荒れた雪は、高い塀の半分近くまで積もっている。正面道路に止められた自動車は屋根の一部しか見えず、街路樹は枝へ付着した氷の重みに耐えきれず、何本も折れていた。
監視カメラの映像は激しい吹雪で白く霞み、数メートル先の様子さえ分からない。風に巻き上げられた雪が建物の外壁へ叩きつけられ、低い唸り声のような音を響かせている。
地下監視室の外気温計には、氷点下三十二度と表示されていた。
昨日の夕方までは、まだ氷点下十度にも達していなかった。それが一夜で二十度以上も下がり、今なお一時間ごとに低下し続けている。
「とうとう始まったのね」
恋は寝間着の上からカーディガンを羽織り、設備の状態を確認した。
外部からの電力供給は、午前二時過ぎから何度も途切れていた。現在は完全に停止しており、建物内の照明、暖房、換気、水循環は地下の発電機と蓄電池で動いている。
室温は二十二度、湿度は四十八パーセントに保たれていた。貯水槽にも異常はなく、燃料式ボイラーから供給される温水も問題なく使える。
外が氷点下三十度を下回っているとは思えないほど、建物の中は静かで暖かかった。
恋は異空間から、収納したときの温度を保った朝食を取り出した。炊きたての白い御飯、焼き鮭、卵焼き、豆腐と若布の味噌汁、それに温かい日本茶である。
湯気の立つ味噌汁を口へ運ぶと、柔らかな温もりが喉から胃へ広がった。
前世でこの寒波を迎えた朝、恋は停電したマンションで、冷えた保存食を少しずつ食べていた。室温は急激に下がり、厚手の上着を着ても指先の震えが止まらなかった。
それでも拓斗は、冷たい食事では体が温まらないと文句を言い、恋が非常用として残していた燃料を勝手に使って缶詰を温めた。自分の分だけを食べ終えると、空になった燃料缶を床へ放り出し、これくらいで怒るなと恋を責めた。
今、恋の食卓に拓斗はいない。
誰かに食事を奪われる心配も、燃料を無駄に使われる恐れもない。必要なものを、必要な分だけ、自分のために使うことができる。
「同じ寒波なのに、前世とはまるで違う。あのとき私を苦しめていたのは、寒さだけではなかったのね」
朝食を終える頃、非常用の受信機から政府の緊急放送が流れ始めた。
『記録的な大雪と気温低下により、全国の広い範囲で交通障害が発生しています。鉄道、航空、高速道路の多くが運行または通行を停止し、複数の地域で停電と断水が確認されています。市民の皆様は不要不急の外出を控え、暖房器具を安全に使用してください』
映像には、雪の中で動けなくなった車列や、駅へ押し寄せた人々が映っている。停電によって信号機が消え、凍結した交差点では何台もの車が衝突していた。
『現在の寒波は当初の予測を上回る規模へ発達しています。ただし、政府は関係機関と連携し、電力、燃料、食料の供給維持に全力を挙げています。買い占めや不要な外出は、救援活動と物流を妨げる原因となりますので、冷静な行動をお願いいたします』
冷静に行動するよう呼びかける一方で、画面の下には、停電地域が急速に拡大しているという速報が流れている。
水道管の凍結や破裂も各地で起こり、一部地域では復旧の見込みが立っていない。通信回線へ利用が集中し、電話やインターネットもつながりにくくなっていた。
前世より、状況の悪化がわずかに早い。
「一度経験したからといって、すべてが同じ時刻に起きるとは限らないのね。準備を一日前倒しにしておいてよかった」
恋は監視室の端末を確認し、外部回線が完全に失われた場合に備えて、記録装置と設備制御を屋内回線だけで動かせる状態へ切り替えた。
発電機の出力、燃料の残量、室内温度、貯水量を一つずつ記録する。防爆鉄扉と防護シャッターの施錠状態も、実際に歩いて確かめた。
前世のように、外で何かが起きるたびに怯えるだけの自分ではない。必要な準備はすべて整っている。
その頃、街のスーパーマーケットでは、買い占めが始まっていた。
営業を続けている数少ない店舗には、開店前から長い列ができていた。人々は吹雪の中で何時間も待ち、扉が開くと同時に店内へ雪崩れ込んだ。
インターネットへ投稿された映像では、買い物客が米や即席麺、水、使い捨てカイロを奪い合っている。
「その水は私が先に取ったのよ。横から持っていかないで!」
「一箱しか買えないなんて聞いてないぞ。家には子供が三人いるんだ、もっと売ってくれ!」
「後ろの人も待っていますから、購入制限を守ってください。倉庫にも、もう在庫がないんです!」
「在庫がないなら、いつ入ってくるんだ。政府は物流を維持すると言っていただろう!」
店員が説明しても、興奮した客は聞こうとしなかった。誰もが自分には特別な事情があり、他人より多く買う権利があると訴えている。
食料品の棚は、一時間も経たずに空になった。暖房器具や防寒着を扱う店では、値札を確かめる余裕もなく商品が奪われ、会計を待てずに持ち去る者まで現れた。
昨日まで、寒波はすぐに終わると笑っていた人々が、今になって一日でも多く生き延びるための物資を求めている。
しかし、道路はすでに雪と氷で閉ざされつつあり、新しい商品が届く見込みはなかった。
恋が前世で住んでいたマンションでも、混乱が広がっていた。
午前中に外部電力が止まり、非常用発電は共用部分の照明と防災設備だけに制限された。各部屋の暖房は使えず、住人たちは厚着をして管理室へ集まっていた。
村田夫婦の部屋では、妻が台所の収納を何度も開け閉めしていた。
「これで全部なの? 米は、もう一袋くらい買ってあったでしょう」
「先月、古くなったから捨てたじゃないか。必要になればスーパーで買えばいいと言ったのは、おまえだろう」
「あなたが寒波なんてすぐ終わると言うから、買いに行かなかったのよ。昨日のうちに水と食料を買っておけばよかったじゃない」
「おまえだって、専門家が心配ないと言っていたから大丈夫だと笑っていただろう。今になって俺だけのせいにするなよ」
台所に残っているのは、米が数合、乾麺が二袋、缶詰が四つ、菓子と調味料が少しだけだった。水道はまだ細く出ているものの、いつ止まるか分からない。
冷蔵庫にも肉や野菜が残っていたが、電気がなければ調理に使える熱源がない。卓上コンロはあっても、予備のガス容器を買っていなかった。
「白川さんのところには、大きな発電機があったわよね。水みたいな箱も、食べ物みたいな荷物も、何十個も運び込んでいたでしょう」
妻が思い出したように言うと、村田は険しい顔で頷いた。
「あれは会社の機材だと誤魔化していたが、全部が工事用品のはずはない。あの女は寒波が来ることを知っていて、自分のためだけに買い込んでいたんだ」
「それなら、少しくらい分けてもらえるでしょう。私たちは長い間、隣人として親切にしてあげたんだから、こういうときに助けるのが普通よ」
「前に発電機を使わせてほしいと言ったら、自分のために買った物だから約束できないと断られた。あの女は、頼めば素直に出すような性格ではなくなっている」
「でも、一人で全部使い切れるわけがないでしょう。私たちが凍え死んでも、自分だけ暖かい部屋で食事をするつもりなの?」
妻の声には、自分たちが食料を備えていなかったことへの後悔より、恋だけが備えていることへの怒りが強く表れていた。
村田も同じだった。
恋が自分の金で買った物であっても、村田夫婦が困っているなら分けるべきだと考えている。拒絶されれば、恋のほうが人として間違っていると責めるつもりだった。
一方、水城拓斗は、知人から一時的に借りた古いアパートで寒さに震えていた。
家賃を滞納していた部屋からは、前日のうちに追い出されている。恋の家へ一緒に押しかけた男の一人が、空いている部屋を数日だけ貸してくれたものの、建物は断熱性が低く、停電すると室温は急速に下がった。
「ふざけるなよ。暖房も使えないのに、この部屋でどうやって寝ろっていうんだ」
拓斗は毛布を二枚重ね、酒を飲みながら悪態をついた。
部屋にあった食料は、即席麺が三つと菓子が数袋だけだった。電気ポットは使えず、水道から出る水も凍りつくほど冷たい。酒を飲めば一時的に体が温まるように感じるが、指先の震えは止まらなかった。
昨日まで一緒にいた男たちへ電話をかけても、誰も迎えに来ようとはしない。
『こっちも停電しているんだよ。道路は雪で動けないし、今はおまえの面倒を見ている余裕なんてない』
「おまえの部屋を貸すと言っただろう。せめて暖房器具と食い物を持ってこいよ」
『鍵を渡してやっただけでも感謝しろ。そこにある物は好きに使っていいと言ったけど、新しく買って届けるなんて約束してない。俺の家にも家族がいるんだ』
「だったら、このアパートの近くにある店を教えろ。金なら、あとで払う」
『近所の店は全部閉まってるよ。それに、おまえに貸した金も返ってきていないのに、これ以上立て替えられるか』
電話は一方的に切られた。
拓斗は怒りに任せてスマートフォンを投げかけたが、通信手段まで失うことを恐れ、寸前で手を止めた。
「どいつもこいつも、自分のことしか考えてない。少しくらい助けてくれてもいいだろうが」
自分が恋へしてきたことを棚に上げ、拓斗は誰も助けてくれないと苛立っていた。
会社を休んでいた高沢も、自宅の賃貸マンションで途方に暮れていた。
寒波が来ると聞いたとき、高沢が買ったのは酒と菓子、冷凍食品だった。どうせ数日で終わるなら、会社へ行かずに家で飲んで過ごそうと考えていたのだ。
しかし停電すれば、冷凍食品を温めることもできない。水道は昼前に止まり、暖房も使えなくなった。
高沢は毛布に包まりながら、会社の連絡用グループへ何度もメッセージを送った。
『白川課長は、こういうときに何をしているんですか。部下の安否確認くらいするのが上司の仕事でしょう』
『俺の部屋は停電と断水で危険な状態です。会社で用意している非常食や毛布があるなら、管理職が届けてください』
『誰も返事をしないなら、あとで人事へ報告しますよ』
だが、会社側もそれどころではなかった。
オフィスでは配管が凍結し、停電によって業務用設備が停止している。多くの社員は通勤できず、自宅で寒さと停電に耐えていた。
高沢の要求へ応じる者は一人もいなかった。
「白川は金を持ってるくせに、こんなときまで何もしないのかよ。新しい家に食べ物を買い込んでるなら、部下に分けるのが普通だろう」
高沢が悪態をついていると、水城拓斗から連絡が入った。
先日の動画配信をきっかけに、高沢は拓斗と連絡先を交換していた。二人とも、恋を冷酷で自分勝手な女として非難するうちに、互いを味方だと思い始めていたのだ。
『高沢さん、今どこにいる? 食料と暖房はあるか?』
「あるわけないだろう。電気も水道も止まってる。そっちはどうなんだよ」
『こっちも同じだ。ただ、俺には行く場所の心当たりがある。恋の家だよ』
「警察を呼ばれた家へ、また行くつもりか? あの女、扉を開けないんじゃないのか」
『俺一人だから開けなかったんだ。けど、今は災害が起きている。村田さん夫婦や高沢さん、それに困っている人間が何人も一緒なら、さすがに全員を追い返すことはできないだろう』
「白川の家には、本当に食料があるんだろうな?」
『間違いない。俺は大量の荷物が運び込まれているのを見たし、村田さんも確認している。大きな発電機も暖房設備もある。あいつは、この寒波が来ると知っていたみたいに準備していたんだ』
「それなら、どうして俺たちに何も言わなかったんだ。会社の上司なら、部下へ警告する責任があるだろう」
『恋は昔から、自分だけが得をすればいいと思ってる女なんだよ。でも、今はそんなことを言っている場合じゃない。あの家に入れれば、みんな助かる』
拓斗は高沢との通話をつないだまま、村田にも連絡した。
「村田さん、白川恋の家へ行きましょう。あそこなら発電機も暖房も動いているし、食料も水も山ほどあります」
『しかし、道路がこの状態だぞ。車で行けるかどうか分からない。それに、あの女は前に警察を呼んだじゃないか』
「四輪駆動の車を持っている知り合いがいます。幹線道路が完全に埋まる前なら、まだ動けるはずです。恋が一人で開けようとしなくても、俺たち全員で頼めば無視できません」
『頼んでも断られたら、どうするんだ?』
「災害時に、食料も暖房も持っている人間が、困っている人を見殺しにするなんて許されません。周りにも事情を話して、みんなで行くんです。あいつに、この家も物資も一人だけのものではないと分からせましょう」
拓斗の言葉に、高沢がすぐ同意した。
「そうだ。白川には上司として俺を助ける責任がある。あいつだけ暖かい部屋で食事をしているなら、少しくらい分けさせても問題ないだろう」
村田の妻も、電話の向こうから声を上げた。
『私たちは白川さんを娘のように心配してきたのよ。こういうときに助けてもらえないなんて、おかしいわ。食料を独り占めしているなら、近所の人たちにも知らせるべきよ』
誰一人として、自分たちが備えなかった責任を口にしなかった。
拓斗は毛布に包まったまま、寒さで震える唇へ歪んだ笑みを浮かべた。
「決まりですね。これ以上寒くなれば、外へ出ることすらできなくなる。動けるうちに全員で恋の家へ行きましょう。あいつの家は暖かいはずです。俺たちを中へ入れさえすれば、もう凍えなくて済む」
吹雪の音が、古いアパートの窓を激しく揺らした。
外気温は、すでに氷点下四十度へ近づいていた。
第56話 十二万リットルの人質御厨の放送が終わっても、食堂に集まった者たちはすぐには口を開かなかった。壁際の石油ストーブが低く燃え、天井付近を通る温水管がときおり金属の収縮音を立てている。昨日までなら聞き流していたはずの小さな音が、今夜は燃料の残量を数える時計の針に思えた。橋本は放送の途中から書き始めていた数字を、白板の中央にもう一度大きく記した。百二十万ではない。十二万リットル。それでも、暖房用のポリタンクを頭に思い浮かべた者にとっては、現実味のない量だった。「念のために言っておきますが、これは灯油のポリタンクを六千個ほど並べた量です。重量だけで百トン近い。御厨が明日の夕方までに寄越せと言っているのは、倉庫の隅に置いてある予備を分けてくれという話ではありません」橋本は白板の数字を囲み、手袋を外さないままマーカーを置いた。物流会社にいた頃なら、これだけの燃料を動かすにはタンクローリーの確保から運行計画、受け入れ先の設備確認まで、複数の部署が何日もかけて調整したはずだった。ところが御厨は、そのすべてを恋の右手ひとつで飛び越えようとしている。「北辰の六百二十七人を移すために、本当にこれだけ必要なのか」真壁は折れた左手の人差し指を固定したまま、右手で資料をめくっていた。傷口の腫れが残る顔で細かい数字を追う姿は痛々しかったが、休めと言われて素直に寝ていられる男でもない。「向こうにいた間、車両置き場は何度か見ました。大型バス、除雪車、資材運搬車、装甲を追加した警備車両、それに暖房用の燃料槽がある。全住民を一度に運べる台数ではないから、往復を前提にしていたはずです。ただし、十二万リットル全部が住民輸送に必要かと聞かれれば、俺は違うと思う。移転後の拠点を維持する分と、警備車両を動かす分まで含んでいるでしょう」「だったら渡すべきじゃない」誰かが低い声で言うと、それまで黙っていた住民たちの間から、押し殺していた言葉が次々にこぼれた。「燃料を渡して、その車でここを襲われたらどうするんだ」「でも、あそこには子供だっているんでしょう。昨日ここを出た人たちもいる。自分で選んで出ていったんだから知ら
第55話 敵の車で命を運ぶ 北辰統合区の車列は、避難所へ近づかず、南へ進み続けた。 三台の大型車両は等間隔を保ち、先頭車が吹きだまりを崩し、後続車がその轍をなぞっている。車体後部に積まれた居住用の断熱箱からは弱い熱が漏れていたが、人間が乗っているほどの温度ではない。内部を凍結させないため、最低限の暖房だけを動かしているようだった。「この先で南へ向かえる幹線道路は二本あります。一つは山間部の発電所方面、もう一つは研究施設を経由して、旧食品工業団地へ抜ける道です」 相馬が地図へ二本の線を引いた。右足の凍傷は軽度だったが、真帆から外出を禁じられているため、椅子に座ったまま監視に加わっている。「いまの位置で進路を変えなければ、研究施設へ向かう道ですね」 恋は監視画面の車列と地図を見比べた。 研究施設には、榊原と皆川を含む生存者が残っている。研究用の種子は複数の拠点へ分散させたが、生きた培養組織や発芽試験中の種は施設内に残されていた。それらは右手の異空間へ入れられない。異空間の内部では時間が止まり、物品は劣化しないが、生きた細胞は生存できないからだ。 北辰の車列が、研究施設の人員と培養物を運ぶためのものなら、三台の断熱箱にも意味がある。「北辰は、次の寒波が来る前に研究施設を回収するつもりでしょう」 柏木は新しい気象予測を机へ置いた。「現在の外気温は零下九十二度ですが、寒気の本体はまだ北西にあります。最も早い予測では、三十六時間後から急降下が始まる。研究施設の外壁は厚いものの、暖房設備は一系統しか残っていません。零下百度を下回れば、故障していなくても出力が足りなくなる可能性があります」「連絡は取れますか」「研究施設との専用周波数を試します」 小野寺は右手の指先へ保温材を巻いたまま、通信卓へ座った。病院での作業による凍傷は軽かったものの、富美子と真帆から休むよう言われている。それでも、通信の設定だけはほかの者へ任せられないと医務室を抜け出し、後で必ず戻るという条件で監視室へ来ていた。 数回の呼びかけの後、雑音の中から榊原の声が返ってきた。
第54話 開いた扉の向こう側『白川恋だけが、あなた方に北辰を敵だと思わせています』 御厨の放送が途切れたあとも、食堂に集まった者たちは受信機を見つめ続けていた。 機械はすでに沈黙し、表示灯だけが一定の間隔で明滅している。それでも、誰かが口を開けば、自分の本音まで周囲へ知られてしまうような息苦しさが残っていた。 北辰統合区は、銃口ではなく選択肢を向けてきた。 六百人以上が暮らす大規模な共同体、暖房設備、医師、警備員、配給制度。武器を置いて北辰へ来れば、過去の所属を問わず受け入れるという。御厨が約束を守り、真壁たち六人を実際に返した直後だからこそ、その誘いには無視できない重みがあった。「北辰へ行きたいと言ったら、本当に止められないんですか」 食堂の後方から、若い男が尋ねた。 杉浦達也という元配送員だった。災害発生後、近隣の集合住宅から保護され、物資運搬や雪かきに加わってきたが、恋や評議会と親しいわけではない。これまで大きな不満を訴えたこともなかった男が、人々の間を抜け、机の前まで出てきた。「今すぐ出ていくと言っているわけじゃありません。ただ、北辰には六百人いるんですよね。ここより設備も人手も多い。御厨という人のやり方が気に入らないとしても、あちらのほうが生き残れる可能性が高いと考えるのは、間違っているんでしょうか」 誰かが小さく舌打ちした。「真壁さんたちを人質に取った連中だぞ。そんなところへ行くのか」「ここにいたって、十日以内に攻められるかもしれないんでしょう」 杉浦は声を荒らげなかったが、引き下がりもしなかった。「俺は兵士じゃない。白川さんに助けてもらったことには感謝していますし、仕事を割り振ってもらったことにも不満はありません。でも、北辰と戦うためにここへ来たわけではないんです。生きられる場所がほかにもあるなら、どちらを選ぶか考えたい。それを裏切りと言われたら、俺は何のために生き残ったのか分からなくなる」「北辰へ行けば、ここの内部情報を全部話させられる。お前一人の問題では済まないんだ」 別の男が椅子から立ち上
第53話 六人と一人の交換条件「俺を渡せば、真壁さんたちは戻る。数字だけなら、迷う理由はないな」 藤堂の言葉が、外部診療室の静かな空気へ落ちた。 壁に取り付けた暖房機は一定の低い音を立て、窓のない室内を二十二度に保っている。その温度とは裏腹に、机を挟んで向かい合う者たちの間には、容易に埋められない冷たさがあった。 北辰統合区から届いた交換条件は明快だった。真壁と倉庫作業員五名を解放する代わりに、藤堂直哉を返還する。その交渉には白川恋本人が出席しなければならない。 六人と一人。人数だけを比べれば、答えは最初から決まっているように見える。「人間を数字だけで選ぶつもりはありません」 恋が答えると、藤堂は固定された脚を見下ろした。「きれいごとを言っているとは思わない。あなたがそういう考えで動いてきたことも、この数日で分かった。ただ、向こうにいる六人を助けるために、俺一人が戻る。それで済むなら、悪い交換ではないだろう」「御厨さんが、あなたを戻すだけで満足すると思いますか」「思わない。俺を連れ戻す目的は、北辰から離れた者を放置しないと示すためだ。事情があれば勝手に抜けても許されるとなれば、ほかの連中も続く。御厨さんは、それを恐れている」「ならば、戻った後に処罰される可能性があるのでは?」「あるだろうな」 藤堂は、何でもないことのように言った。 しかし、シーツの上に置かれた手は硬く握られ、爪の色が白くなっている。自分がどう扱われるか分からない恐怖を、声に出さないことで押さえ込んでいるのだろう。「それでも、菜々は北辰の中にいる。俺が戻れば、少なくとも娘が『裏切り者の子供』と呼ばれる理由は減る。今は御厨さんも露骨なことはしないだろうが、食事の量や寝る場所を規則の名目で変えることはできる。七歳の子供に、父親の選択の責任を負わせたくない」「藤堂さん自身は、北辰へ戻りたいのですか」 恋が尋ねると、藤堂はすぐには答えなかった。暖房機から流れる風が、机に置かれた交換条件の紙をわずかに揺らしている。「戻りた
第52話 残り百二十分 病院の暖房が止まってから完全に冷え切るまで、残された時間は二時間だった。 零下九十度近い外気にさらされた建物では、熱を作る設備が止まれば、壁も床も巨大な氷の塊へ変わっていく。市立病院には断熱材が入り、窓の一部も応急処置で塞がれているが、それでも永遠には持たない。とりわけ乳児と術後の患者は、自力で体温を保つことが難しかった。 恋は監視室の机に地図を広げ、旧消防署、病院、偽の第二保管庫を赤い線で結んだ。北辰の雪上車は、いまも廃冷凍倉庫へ向かっている。偽装資料に記された搬出先を確認するためだろうが、そこに何もないと分かれば、再び旧消防署か病院方面へ戻ってくる可能性が高い。「病院への最短経路は使いません」 恋が告げると、相馬はすぐに頷いた。「旧消防署の南側を通れば三十分で着きますが、北辰が受信装置を残しています。川沿いの資材置き場を抜け、地下道を二つ通る経路なら、五十分から一時間です。ただ、途中で雪が深くなっていれば、もっとかかります」「車両は小型の雪上運搬車を使ってください。大きな雪上車より遅いですが、熱源が小さく、狭い道を通れます。修理に必要な部品は?」 小野寺が病院から届いた短い信号と、以前に共有された設備資料を見比べた。「主発電機は吸気閉塞で安全装置が働き、停止した可能性が高い。予備機が起動しないのは、始動用バッテリーか燃料系統でしょう。病院の発電機室は普段なら氷点下まで下がりませんが、暖房が止まれば急速に冷えます。冬用軽油でも、この気温では燃料フィルターが詰まるおそれがある」「交換用フィルター、始動用バッテリー、燃料加温器、吸気口の氷を溶かすヒーター、工具一式を持っていきます」 橋本が物資の一覧を書き始めた。以前なら、それらの大半を恋の異空間から取り出していただろう。しかし、現在は右手の治療中であり、非常用の部品は百八十日分の分散備蓄へ移してある。橋本が物品棚から必要なものを集めても、恋は手を貸さなかった。今後も自分一人が全てを出し入れする状態を続けないために、あえて任せるべき場面だった。「修理手順は病院へ送ります。現地だけで復旧できれば、相馬さ
第51話 嘘の第二保管庫 偽の保管庫を調べ終えた北辰統合区の雪上車は、恋たちの避難所へ向かわなかった。 監視画面の中で進路を変えた車両は、吹雪にかすむ街路を東へ進み、やがて旧消防署のある区画へ近づいていく。そこには病院との連絡を中継するために設置した無線設備があり、互いの電波が直接届かない時には、短い暗号通信を自動で転送する仕組みになっていた。 北辰の者たちが中継地点の存在を知っているとは考えにくい。だが、偶然で済ませるには、雪上車の進路が正確すぎた。「旧消防署まで、あと一・八キロです。このまま進めば、十分以内に外周へ入ります」 柏木が地図上へ車両の位置を重ねた。カメラから届く映像は雪の粒に乱されているが、熱源の輪郭までは失われていない。雪上車とは別に、少し離れた場所を進む二つの小さな熱源も確認できた。先行して周辺を調べる斥候だろう。 恋は監視卓の脇へ置かれた偽装資料を振り返った。偽の保管庫には、実在しない物資の一覧と、別の場所へ搬出したように見せかける伝票を残してある。ただし、搬出先として記したのは北側の廃冷凍倉庫であり、旧消防署へつながる記述は一つもない。「橋本さん、偽装資料に消防署を連想させるものはありませんね」「ありません。念のため、搬入元の会社名や車両番号まで確認しましたが、消防関係の記録は使っていません。物資の移動先も北側です。あの資料を信じたなら、東へ進む理由はないはずです」 橋本は自分の作った一覧を指で追いながら答えた。嘘を作るにも整合性がいると、彼は倉庫の入出庫記録を何日も調べ、現実にありそうな数量へ調整していた。雑な偽装なら水城拓斗でなくとも見破れる。だからこそ、北辰が偽情報とは無関係の方向へ動いた事実は重かった。「偽の保管庫から周囲を扇状に捜索している可能性はあります」 相馬が地図へ身を寄せ、雪上車の移動経路を確認した。「あいつらが第二保管庫を本気で信じたとは思えません。空だった時点で、近くに監視設備や別の拠点がないか調べるでしょう。旧消防署は建物が比較的残っていますし、高い通信塔もある。捜索対象に入っても不自然ではない」「病院との往